又吉直樹『人間』

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「又吉直樹『人間』の凄み」中森明夫(コラムニスト)

2019/10/8

 又吉直樹の新作小説『人間』(毎日新聞出版)を読んだ。10月10日刊のプルーフ(見本)が届き、いち早く読んで評したいと思った。本紙夕刊に連載された新聞小説というご縁もある。芥川賞受賞の大ベストセラー『火花』、続く『劇場』の中編2作、第3作の今作は著者初の長編小説である。

 主人公はイラストレーター兼コラムニストだ。38歳の誕生日に古い知人からメールが届き、20年前の回想へと至る。漫画家志望の青年・永山は、大阪から上京して「ハウス」と呼ばれる共同住居に暮らす。芸術家志望の若者たちが住むそこで日々、議論を交わし、確執がある。どこか懐かしい青春群像劇だ。文中に加川良の名も見えるが、加川の名曲「下宿屋」を想起した。

 又吉の小説は会話が生き、思弁的な内容が関西弁で和らげられ、ちょっと織田作之助(『夫婦善哉』)の趣もある。何げない細部がよい。<めぐみと仲野と3人でラーメンを食べにいった。めぐみが僕に「チャーシューちょうだい?」と言った。「あかんよ」と言って笑ったけれど、それは自分の人生において重要な瞬間だった>——しびれる、こういうところが。又吉の小説は「一つの場所」であって、読んでいる時、確実に自分はその場所にいるのだ、という実感を覚える。

 本作は3章構成だ。1章の青春の痛みが、2章の現在時へと連なる。影島道生という芸人が登場する。ポーズというコンビを組み、小説を書いて芥川賞を受賞した。明らかに自身がモデルだ。影島は自分を批判したコラムニストや大学教授を痛烈にたたき返す。おや?と思った。現実の又吉は物静かで温厚で、あれほどの受賞騒ぎの後でもその姿勢を崩さない。だが、対照的に影島は傲慢な口調で自己主張し、スキャンダラスな情動を生きる。その様は、どこか作家・太宰治その人を思わせる。生誕110年で、太宰の破天荒な生き様を描いた映画が公開されてもいる。思えば、太宰は38歳で『人間失格』を書いて、心中死を遂げた。太宰は又吉の最も尊敬する作家で、『人間失格』はバイブルのように読み返したという。その又吉が太宰の享年(38歳)に至り、『人間』を書いた。主人公・永山と影島道生の深夜のバーでの長い対話は、この小説中の一番の読みどころだ。もし自分が太宰のように生きたら? 内部に孕む狂気やパッションを解放したもう一人の又吉=影島との対話と別れは、どこか又吉自身の太宰治(の生き方)との訣別のようにも読める。

 第3章で主人公は、父の住む沖縄へと旅立つ。久々の新刊を上梓して、賞を取り、親類たちが祝いの宴を開いてくれる。社会規範を逸脱したトボケた味の父と、それを優しく見守る母(奄美大島出身)と、泡盛が振る舞われ、三線がかき鳴り、にぎやかなエイサーの踊りが始まって、物語は南の島の陽光に照らされ、カーニバル的な祝祭の色を帯びる。

 本作では登場人物が突如変容したり、時間が飛んだり、シュールな描写の不意打ちに、おおっ!と驚かされもする。が、主人公が奄美のユタ(巫女)の血を引くと明かされ、現実と異界を往還するカチャーシー(かき混ぜる)の心地よい調べが鳴っている。「子供の頃から、この物語の断片を無意識のうちに拾い集めていたような気がする」と又吉は述べているが、なるほど自身の幼少期からそのルーツ、さらにはこの危うい物語の小川は、無意識の豊かな大海に開かれている。

 太宰治の『人間失格』は戦後日本で最も読まれた小説だ。何よりそのタイトルが際だっている。しかし、<僕達は人間をやるのが下手>と言うこの小説を「人間」と名付けた著者に“凄み”を覚える。作家は3作目が勝負だと言われるが、小説家・又吉直樹はこの作品で大きな飛躍を果たした。文中で鳴る加川良やレナード・コーエンや「ピアノマン」や、場末の酒場で聴くブルース、三線の鳴る南の島のエイサーのような……いつまでもこの物語を、この歌を聴いていたいと思った。令和元年のまぎれもない傑作小説が誕生した。

(「毎日新聞」2019年9月18日東京夕刊より)

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